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『自分や人生を変えたい・・・遅すぎるなんてないよね?』ちょっと不安を抱きながらも試行錯誤、チャレンジ、挑戦、もがきたい・・・!日常の出来事や経験、思ったこと、うつ・パニック・不安、愛犬ポメラニアンのことなどを綴っていきます。気持ちの整理も兼ねて書くから文章がまとまっていないこともあるかも?

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祖父の死、その後。喪失感や疑問、「死」というものについて。

祖父が亡くなって1週間ちょっと、まだそれしか経っていないのにだいぶ前の出来事のような感じがしています。

現実味の欠ける日常生活が始まって、初めて泣けるだけ泣けた気がします。

今はまだ、時間の経過とともに悲しみが深くなっているような気がします。

そして、やっぱりなんだかぽかーんとしています。

これが喪失感っていうのかな。

詰め替えたばかりの洗剤を倒して液体ぶちまけたり、キャッシュカードを全て忘れてATMに行ったり・・・平常心のつもりでも注意散漫です。

先日、ちょうど通院があって、医師からは「家族が亡くなったりした後1年くらいは大きな変化を起こさない方がいい、大丈夫なつもりでもやっぱりどこか違うくて後悔することが多いから。」と言われたけど、注意散漫もその1つかと感じています。

そして、「ちゃんとお別れはした方がいい。そのためにも喪中っていう期間があって、49日とか区切りごとに少しずつお別れをしていく、受け入れていく時間があるんだよ。少しずつね。時間の経過と共にぽつんぽつんと心に何かしら浮かんでくるはずだから。」と言われたけれど・・・今はまだ・・・。

無理に落ち込んでいるわけでもなく、無理に元気を出す気分でもなく、でもやっぱりぽかーんとしていて・・・。

ただ、静かに穏やかに過ごしたい。

1人でいると特に・・・気づくと祖父のことが頭に浮かんでいるけれど、少しずつ、少しずつ、この現実味に欠ける日常が現実なんだと思えるようになってきたような気もしています。

 

それと同時に、祖父が亡くなった日のことはやっぱり疑問というか不思議で仕方ありません。

いつ亡くなってもおかしくない状態だったのに、なぜ、私たちは「大丈夫そうだね、変わらなそうだね」と病院を出てしまったのか・・・。

なぜ、そんな時に限って看護士さんに状態を聞かなかったのか・・・すぐそこにいたのに。

なぜ、私たちが真っ直ぐ帰路につかず、病院のすぐそばで寄り道をしているちょっとの隙に祖父は逝ってしまったのか・・・。

私たちが病院のすぐそばにいて、おじたちが病院に向かっている間になぜ・・・。

「なぜ」「どうして」が次々と浮かんできます。

でも、なんだか祖父が旅立つ瞬間、みんなが遠ざけられたような、引き止められたような、そんな不思議な感じがしています。

みんなに囲まれて、泣かれて、呼ばれながら旅立つよりも、祖父はみんなの心にできるだけ波風をたてずに静かに1人で旅立ちたかったのかもしれません。

心から平和を望み、口数が少なく、優しい、怒ったり、人を咎めたりすることのない祖父らしい静かな静かな最期だったと、やっぱり思います。

おじは、仕事が忙しい中、本当にきめ細かく、マメにケアを続けてきました。

祖父の入院記録、医師の説明の議事録・・・とてもじゃないけど並大抵の労力じゃできない、本当によくここまでできたなと思ってしまうほど。

だからなのか、それでもなのか、おじは息を引き取った祖父に「父さん、ごめん、間に合わなかった・・・」と泣きながら言いました。

そんな2人の姿を見て、どんな思いを抱え、できることを、どれだけやったとしても遺される側は「後悔」や「疑問」を抱えてしまうのが「死」というものなんだと思いました。

おそらく遺される側が「満足」や「納得」できる「死」なんてなくて・・・「死」という最期の別れだからこそ、必ず何かしらの「心残り」みたいなものが残ってしまうんじゃないかと・・・。

でも、「後悔」や「疑問」や「心残り」があったとしても、それは故人のために何もできなかったとか、不足があったということにはならないとも思います。

少なくとも「当時、その人のことを思ってできることをやった」ということだけは事実だと思います。

それでもやっぱり「あの時あぁしていたら」「もっとこうしていれば」「あんな風にしなければ」・・・「~たら」「~れば」と、もっとできたことがあったんじゃないか、ベストな道は他にあったんじゃないか、何かが足りなかったんじゃないかと思ってしまうものなんでしょうね。

「死」はどんなに力を尽くしても避けられないもの、そして、どんなに力を尽くしても何かしら心に残していってしまうものなんでしょうね・・・。

でも、その心に残っているものが、故人への思いの大きさというか重さのような、一緒に過ごした時間の重さや濃さ、思い出の多さなんかを表しているような気もします。

そう考えると、心残りがあったとしても、そんなに悪いものではないような気もしてきます・・・悲しいのは変わらないけれど。

 

祖父は、きょうだいみんなを見送って最後に逝きました。

今は、祖父が両親やきょうだい、友だち・・・先に逝ってしまった人たちと会えているといいなと思います。

長生きした分、きょうだいや友だちが次々と先に逝ってしまって寂しい部分もあったと思います。

だから、みんなに会って、好きなものを食べて飲んで、好きなことをして過ごしていてほしい・・・老いや病気、入院生活は苦しいことが多かったと思うから、幸せに楽しく過ごしていてほしいです。

そして、私たち孫が伝えた「またね。」の約束の日まで、長いと思うけど・・・待っていてほしい。

また、会いたい。

 

まだまだ非現実的な感覚を感じているけれど、祖父は私が死にとらわれたり、悲しみ続けたり、日常生活から離れようとしたり、体調を崩すようなことは望んでいないと思います。

思っている・・・分かっているけれど、簡単には離れられないのも事実です。

心にはズーンとした何かがあるし、考えても仕方ないことを考えたり私の悪いクセが活動し始めているのも感じていて、意欲がなんだか欠けていたり、変にイライラしてしまったり・・・分かっていても思うようには進めません。

 

悲しいかな、私は祖父の死で、祖父の生き方や思いを改めて知りました。

私も、逃げたくなるけれど、これからは「自分らしさ」を大切にして生きていきたいと思います。

 

この記事は5/10(金)に書き始めたんですが・・・。

GWに帰省したり、自宅に戻ってもぼーっとしていたのもあってめくり忘れていた日めくりカレンダー。

10日の日にめくってみると・・・。

いつまで一緒にいられるか分からないということをしっかり心にとめてお互いを大切にしよう。

「生」は神秘的と言われることが多いけれど、祖父の死によって、「死」もまたなにか見えないエネルギーのようなものとつながっているのではないか・・・と思うことが多くありました。

 

お読みいただき、ありがとうございました。