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『自分や人生を変えたい・・・遅すぎるなんてないよね?』ちょっと不安を抱きながらも試行錯誤、チャレンジ、挑戦、もがきたい・・・!日常の出来事や経験、思ったこと、うつ・パニック・不安、愛犬ポメラニアンのことなどを綴っていきます。気持ちの整理も兼ねて書くから文章がまとまっていないこともあるかも?

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大切な人の死。生きているものはいつか死ぬ。覚悟していても直面すると辛い。乗り越えられるのか、受け止められるのか。

GWの帰省中に祖父が亡くなりました。

私は、両親が共働きだったため母方の祖父母と多くの時間を過ごしました。

育ててもらったといっても過言ではありません。

1週間が経とうとしていますが、ふとした瞬間に祖父の姿や思い出が蘇ってきて、悲しみや喪失感が増しています。

死・・・いつかこの日が来ることを覚悟していたつもりだった

祖父は、93歳でした。

ここ数年は入院したことも何度かあり、施設で暮らしていました。

昨年末、病気のため再び入院しました。

「手術が必要だけど、体の機能が落ちていて手術ができる状態ではない。できる治療がない。年を越せるか分からない。」

そう知らされたのは、年末年始の帰省中でした。

高齢であること、病気をしていること・・・いつこんな日が来てもおかしくはないと覚悟しているつもりでした。

祖父は4か月という時間をくれました。

祖父の最期

4月下旬、GWで帰省していたいとこが祖父に会いに行ったそうです。

私も年末年始、GW、お盆と連休の時には必ず帰省し、祖父母に会いに行っています。

今回も、亡くなった翌日に会いに行くつもりでした。

 

亡くなる当日の午前中、おじから「容体が悪くなった。」と連絡がありました。

でも、まさか亡くなるとは思ってもいませんでした。

なぜ、本当に亡くなる時にそう思えないのか・・・。

家族で話した結果、午後から病院に向かいました。

酸素吸入器をつけていて、呼吸が苦しそうだったものの、まさか亡くなるなんて思えず祖父に声をかけて病院を出ました。

看護師さんをつかまえてしつこいくらいに質問攻めにすることもあるのに、なぜ今回は祖父の状態を聞こうともしなかったのか・・・。

 

私たちはまっすぐに帰路にはつかず、病院のすぐそばの道の駅にいました。

すると、再びおじから「病院から連絡があった。」と連絡がありました。

病院に戻ると祖父は既に亡くなっていました。

 

地元で育った孫みんなに会ってからの最期でした。

「あどいー。」

そう言って、誰もいなくなった時間を選んだかのような最期でした。

物静かで、優しい祖父らしい最期だったのかもしれません。

葬儀が終わるまでの4日間、泣くより笑うことが多かった

病院から葬儀場まで移動するワゴンの中、何か気持ちが浮かぶでもなく、ただ布団の上から祖父の手に自分の手を重ねていました。

慣れた、あっという間のはずの道のりが随分と長く感じました。

 

葬儀場へは次々と親族が集まりました。

祖父が亡くなったこと、すぐそこに遺体があっても信じられないような、不思議な感じがしました。

 

納棺で祖父が白い着物と足袋をはかせてもらったのを見た時、初めて「これでお別れなんだな・・・。」と感じ、そこで初めて哀しみなのか寂しさなのか涙がぶわぁっと溢れました。

 

棺に花を入れる時に孫みんかがかけた言葉は「じいさん、またね。」でした。

鶴を折って棺に入れた手紙に「じいさん、またね。」と、孫みんなが書いていたと知ったのもその時でした。

お別れだけど「またね。」でした。

 

病院で、葬儀場で・・・だんだん冷たくなっていく祖父に触れても、火葬が終わっても・・・1日、2日、3日、4日・・・と時間が過ぎてもあまり実感がありませんでした。

母もおばも・・・「不思議な感じだね。」と話していました。

みんな気持ちは同じなんだと・・・。

 

昔はよく一緒に遊んだいとことも成長するにつれ会うことも少なくなっていました。

祖父の葬儀で親族が集まり、短い時間ではあったけれど、同じ気持ちで時間を過ごし・・・だからこそなのか、泣くよりも笑うことの多い時間でした。

祖父がなくなったことは悲しいけれど、もちろん泣いた時もあったけれど、それよりも祖父の思い出話や近況で笑っている時間の方がはるかに多かったのです。

そうしようと思ってそうしたわけではないけれど、笑っていた方が祖父も安心できたのではないかと思います。

 いとこが孫代表あいさつで「じいさんは最高だなと思った」と言っていたけれど、私はこんな親族もまた最高だと思うのです。

ふとした時、眠っている祖父の横でみんなで笑えている自分たちがいることに、「じいさん、私たち大丈夫かもしれない」と伝えたくなりました。

お坊さんの話

お坊さんが少し話をしてくれました。

「お逮夜とは、故人との別れを覚悟する日であること。」

「供養とは、人が共に養うと書く。

一般的には、生きている人が亡くなった人のために行うものというイメージがあるが、生きている人もまた亡くなった人から受け取っているんだということ。

故人の老いた姿から、老いを学ぶ。

故人の病気の姿から、病気になることを学ぶ。

故人が亡くなったことから、自分もいつか死ぬということを学ぶ。

供養とは、生きている人と亡くなった人が共に養いあっているということ。」

 ずっと不思議だったことが喪主挨拶で腑に落ちた

私は、勉強することが好きでした。

そして、このブログを始めたきっかけ、タイトルに込めた想いにもあるように「何かを始めるのに遅すぎるなんてない」と心のどこかで思い続けていました。

でも、自分の中になぜそんな思いが根付いているのかは分かりませんでした。

それが、おじの喪主挨拶で改めて聞いた祖父の経歴とおじの言葉で腑に落ちたのです。

おじは、祖父から限界を自分で決めるのではなく挑戦していく姿を学んだと言います。

祖父は、左官、大工、水道工事、農業・・・幅広く仕事をしてきた人でした。

勉強を続け、ここまで幅の広い仕事をしてきました。

本を読むのが好きで、知識が豊富で昔から色々なことを質問しては教えてもらっていました。

勉強が好きなこと、挑戦したい気持ちは祖父から通じているのかもしれません。

ただ、私は恐怖や不安から「できない」「無理」「もう遅い」と自らストップをかけたり諦めたりすることもありました。

でも、私は、やっぱり、行動もしていないのにできないと決めつけることが、心のどこかでずっと嫌いでした。

祖父が伝えたかったことは・・・?

自宅に戻る朝というのか、自宅に戻る前の夜というのか・・・怖い夢を見てビックリして起きると、祖父の姿がありました。

もしかしたら、祖父の姿も夢だったのかもしれません。

実家に強盗2人が押し入ってきて、茶髪の40~50代の強盗とはちあわせして、包丁を振り下ろされる瞬間に「わぁぁぁぁぁ!」と大声をあげ、ビックリして起きました。

途中、場面が洋風の建物に変わったのでおじの家かもしれません。

もう1人の強盗は黒髪で、なぜか隠れていました。

「わぁぁぁぁぁ!」と実際に声を出していたような、そんな自分の声に驚いて起きたような気もします。

すると、目の前に上半身、うっすらと透けた、青みがかったグレー・・・だけど肌は肌色だと分かる、白髪交じりの祖父の姿が見えました。

年は取っていたけれど、寝たきりになる前の、元気だったころの祖父の顔で、笑っていました。

亡くなって、ようやく自由に動けるようになったのかな・・・。

1回目に瞬きをした時はまだ祖父の姿が見えました。

2回目に瞬きをすると、スーッと祖父の姿は消えていきました。

そして、私も「寝よう・・・」と思って目を閉じたのを覚えています。

祖父は何を伝えたかったのか・・・。

実家を出発する日だったので「気つけでいげ。」と伝えたかったのかもしれません。

眠りにつく前、30代半ばにして新しいことを勉強しようとしている自分と、そんな自分に「いつまで青臭いことをしようとしているんだろう。」とぼんやり考えていたので、勉強好きで色々なことに挑戦し続けた祖父が「そいでいぃ。」と伝えようとしてくれたのかもしれません。

なんとなく今までの自分の選択が本当に正しかったのか、私自身こんな考え方でいいのか、自分の人生や生き方に疑問をもっていたのを、全て肯定してもらえたような気がしました。

落ち着くと悲しい、まだまだ悲しい

葬儀が終わって、遠方から来てくれた親族も帰り、私も自宅へ戻り・・・日常に戻りました。

葬儀が終わるまではみんなでいたから、忙しく過ごしていたから・・・感じる暇もなかったのかもしれません。

落ち着いた今、日常生活に戻った今のほうが、ふとした瞬間に祖父を思い出し涙があふれてきます。

まだまだ、全然悲しいのです。

本当に笑って祖父のことを思い出せるようになるのにはまだ時間がかかりそうです。