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『自分や人生を変えたい・・・遅すぎるなんてないよね?』ちょっと不安を抱きながらも試行錯誤、チャレンジ、挑戦、もがきたい・・・!日常の出来事や経験、思ったこと、うつ・パニック・不安、愛犬ポメラニアンのことなどを綴っていきます。気持ちの整理も兼ねて書くから文章がまとまっていないこともあるかも?

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2018年、退職してからの生活・・・ベースはうつ病の治療②~人生の課題~

2017年末、約10年勤務した会社を辞めました。

2018年のベースはうつ病の治療でした。

でした、って今もだけど(笑)

うつ病の治療というか、精神とか心と向き合わざるをえなくなると色々気づかされることが多いです。

私は、今までの人生で高校を休学したり、会社を休職したり、退職したり、自分と真正面からどっぷり向き合う機会が何度かありました。

今回も、小さなものから大きなものまで気づきがありました。

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自己犠牲・・・「私が我慢すれば」「私が頑張れば」「私がやらなきゃ」

誰かに頼まれたわけでもないのに、仕事、家族、友だち、色々な場面で「私が我慢すればうまく納まる」「私が頑張ればなんとかなる」「これは私がやらなきゃいけないこと」・・・と、自分の周りに起こることは全て自分が率先してやらなければならないと勝手に思っていました。

それが周りのためで、自分のためにもなると思っていました。

「仕事が早い」「要領がいい」「助かる」・・・周りのためにはなっていたのかもしれません。

その反面、私は勝手に奮闘して疲弊していきました。

少なくとも周りのためにはなっていても、自分のためにはなっていませんでした。

そして、私は、「私が我慢すれば」「私が頑張れば」「私がやらなきゃ」などの自分を犠牲にしてまで何かをする必要はないと気づきました。

何かをして、自分がぶっ倒れてたら何の意味もないですよね。

自分ができることを、できるだけやる、それが大事だと思っています。

反対に言えば、「私がやらなきゃいけないことなのかな?」という考えが頭に浮かんだ時は、できそうな時はやる、負荷が大きくてぶっ倒れると思ったらやらないと決めています。

そして、「私がやっておくよ!」と言いだしてしまう習慣がついている私は、「私がやっておくよ!」と言うこと自体をやめました。

思考の無限のループ

私は、気づくと思考の無限のループにはまっていることがよくありました。

自分ではコントロールできなくて、頭が勝手にグルグルグルグルと思考を続けてしまう状態です。

思考の始まりは何だったのか、どこから派生して思考が広がってしまっているのかなんてもう不明です。

その思考を止めることができないと、頭が疲弊して、精神が疲弊して、寝込むところまでいくしかありませんでした。

でも、「調子がいい時」から「調子が悪い時」=寝込むまでを観察し続けて、その思考の無限のループは突然起きるのではなく、きっかけがあって起きていることに気づきました。

きっかけはコンプレックスや劣等感

私の場合、きっかけはコンプレックスや劣等感、罪悪感に触れた時でした。

例えば、 

・自分と他人を比較してしまった

・他人が羨ましく思った

・友達が妊娠、出産した

・周りの人がバリバリ仕事をしている

・隣の家の方がリビングが広い

・自分だけ風邪をひいた

・愛犬のしつけがうまくできなかった

・愛犬の体調の変化に気づけなった

思考の無限のループ・・・多くは「考えすぎ」

自分の意思に反して思考が無限に色んな方向へ広がってしまう・・・私は、その多くが考えすぎだということに気づきました。

①それは考えて解決することなのか?答えのあることなのか?

考えても解決しないことや答えが出ないことは、どんなに考え続けてもしかたありません。

なので、「あ、これは解決しない。考えても答えは出ない。」と気づいた時は思考をやめるようにしています。

②それは『今』考えることなのか?実際に何か起きた時に考えればいいのでは?

『今』考える必要のないことは、『今』考えても仕方ありません。

考える必要が起きた時に考えればいいと思います。

もしかしたら、何も起きないかもしれません。

もし、何か起きたとしても、実際に起きた時には条件や環境が異なっているかもしれません。

なので、『今』が考えるべき時でない考え事をしていると気づいた時は、「『その時』が来たら考えよう。」と思考をやめるようにしています。

③それは私が考えることなのか?

私は、私自身に決定権がないことについては深く考えないようにしています。

もちろん全く考えないというわけではなく、意見を求められたら言うことができる、話し合うことができる程度には考えて、意見は持っています。

でも、私は基本的には「人が自由に決定できるのは自分のことのみ」と思っています。

なので、私が考えるのは私のこと+α程度。

夫婦であっても、家族であっても、最終的に考えて決定するのは本人にしかできません。

育児や介護等自分以外の人のことについて考える場合であっても、考えるべき人の優先順位があります。

だから、私は私が考えることと私以外の人が考えることを分けて考えるようにしています。

④それは私のせい?

私は、私の身の回りに起きることについて「私のせいだ」と思ってしまうことがあります。

客観的に見たら、私のせいでも、誰のせいでもないようなことでも・・・。

ちょっと冷静に考えると「私のせい」って、まるで「私がちゃんとしていればこんなこと起きなかったのに」=私が色々なことをコントロールできるって勘違いでもあるんですよね。

私は、ほとんどのことをコントロールなんてできません。

だから、「私のせいだ・・・」と心にズシンと何かが落ちてきた時には、物事を客観的に見るようにしています。

客観的な視点を持つことで冷静になれるので、「私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ」って一点集中型の視点を離れることで、様々な角度から物事をとらえるきっかけにもつながります。

「0か100か」「白か黒か」の思考

元々は・・・いえ、今もはっきりと答えが出ないと気が済まないところがあります。

でも、生きていくうえで何かのテストみたいにはっきりと答えが出ることって少ないと思います。

というか、人生の選択が正しかったのかどうかの結果が分かるのってだいぶ先ですよね。

もしかしたら、結果という結果なんて出ないかもしれない・・・。

だからこそ、「0か100か」とか「白か黒か」という結果にこだわりすぎず、60でも70でも、オフホワイトでもライトグレーでもダークグレーでも、「そんな自分もまた良し!」とできるようにしたいと思います。

周りの目、評価が気になる

私は、小さい頃から周りの目を気にして生きてきました。

勉強を頑張ったらお父さん、お母さんに褒めてもらえる・・・

テストの点数が良かったら、おこづかいがあげてもらえる・・・

100m走で1位になったら、喜んでもらえる・・・

私にとって、周りの人の目や評価を気にすることはいつの間にか当たり前になっていました。

また、正反対に高校生の頃には整容指導を受けて、外見で全てを判断されることに反発したこともありました。

でも、何かの基準が自分ではなく他者にあるって、それだけで辛いんですよね。

「他者がOKしてくれるかどうか」に全てがかかっているから・・・。

私は、今、「他者がOKしてくれるかどうか」よりも「自分がOKできるかどうか」の方が大事だと思っています。

最大の課題は「無価値観」「自己肯定感の低さ」

色々な考え方や生き方のクセに気づきながら、最終的に私が直面したのは「無価値観」でした。

「自己肯定感の低さ」とも言えます。

自分に問い続けた「無価値観」

「私はどうして生きているんだろう」

「私は何も持っていない」

「私は何もできない」

「何のために私はここにいるの」

「私はないがしろにされている」

「誰も私のことを考えてくれていない」

「私はいなくてもいいんじゃないの」

「私には仕事もない」

「自分のためにお金を使うのはもったいない、どうせ家から出ないし」

「私は美容院なんて行かなくていい」

「私は化粧品なんて安いものでいい」

「誰にも会わないから肌なんて荒れててもいい」

「シミがあったっていい」

「通勤もしないから服や靴は買わなくていい」

「スタイルなんてどうでもいい」

「太っていてもいい」

「無価値観」の辛さ

私はここにいるのに、私自身が「自分がここにいる理由がわからない」って実は辛いんです、とても。

そして、誰かが「いてくれるだけでいい」と言ってくれたとしても、「無価値観」は消えません。

「無価値観」は「誰かが私に対して感じる」のではなく「私が私に対して感じている」。

つまり、「誰か」じゃなく「私」が「私に対する価値」を感じることができなければ、「無価値観」は消えません。

『やらない理由』『いらない理由』を探していた

私は、ある時友達とLINEをしていて気づきました。

「最近太った」とか「色々考えちゃって辛い」とか他愛もないやりとりをする中で、自分の発言には共通点がある・・・

「でも~」

「だって~」

「~できない」

「無理」

「いらない」

「もったいない」

何に対しても『やらない理由』『いらない理由』を探している。

自ら何もしないで済む理由をたくさん探しだし、変化することから逃げている自分に気づいた時、はっとしました。

「無価値観」「自己肯定感の低さ」は誰が決めた?

私の「無価値観」「自己肯定感の低さ」は誰かに言われたものではありません。

私が、私に対して感じていたものです。

私が、無意識のうちに、勝手に、決めつけた・・・。

私には価値がないと決めたのは、私でした。

このままでは生きていけない

今までがそうだったように、「無価値観」「自己肯定感の低さ」を抱えて生きていくのは辛いことです。

何も変わらないまま生きていくのは、私にとって、ただ30年、40年死ぬのを待っているようなものでした。

私は、変わりたいと思いました。

私自身を、人生を変えたいと思いました。

変わるということ

内容がどんなものであっても「変わる」って勇気のいることで、怖いことです。

「変わる」という選択があるということは、「変わらない」という選択もあります。

「変わらない」という選択をすれば今の状況に留まることができるし、少なくとも今より良くなることもなければ悪くなることもありません、たぶん。

でも、「変わる」という選択をすれば今の状況より良くなるかもしれないけど、悪くなるかもしれない・・・。

「変わる」ということは、「変わる」だけでなく、そこから直接的にも間接的にも生まれる結果を全て受け入れる覚悟をすることでもあります。

できることから少しずつ

 

だからと言って、何をしたらいいのかなんて分かりません。

すぐに「自分最高」「私は唯一無二」なんて思えるようにはなりません。

というか、「自分最高」とか言ってたら、ある意味その方が怖いです(笑)

おわりに~自分がいかに穏やかに生きるか~

人は環境や経験に大きく影響を受けて、個人の考え方を持つようになります。

それが極端に偏りすぎると生きづらさにつながります。

誰かのためではなく、自分が穏やかに生きられるようになりたいものです。

『誰か』じゃなく『自分』に軸を置いて生きられるようになりたいと思います。

そのための試行錯誤なら、覚悟した変化なら楽しめるかな・・・?